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2026年5月28日放送の『風、薫る』第44回は、看護婦見習と看病婦の対立が続く中で、ようやくその奥にある「生活」や「誇り」にりん(見上愛)と直美(上坂樹里)が触れ始めた回だった。これまで看病婦たちは、見習いたちに意地悪をしたり、非協力的に見えたりすることが多かった。けれど今回は、フユ(猫背椿)や康介(じろう)の暮らしを通して、そこにあるのが単なる性格の悪さではなく、長年の諦めや卑下、生活の苦しさなのだと見えてきた。
そして何より印象的だったのは、「なんか」という言葉だったと思う。看病婦なんか、私なんか、仕事なんか。そうやって自分や相手の仕事を小さくしてしまう言葉に対して、りんと直美が「なんかなんかじゃありません」と返したところが、この回の核だったように感じる。ただ、そう言い返したからといって簡単に何かが解決するわけではない。そこがこの回の良さでもあったと思う。
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第44回のポイント
- りんと直美は休日を使って、フユの夫・康介の世話を続けている。
- 康介もまた、自分や妻の仕事を「なんか」と言ってしまうほど追い詰められている。
- 看護婦見習と看病婦の壁はまだ残るが、少しずつ揺らぎ始めている。
- 小野田(宮地雅子)の弱り方や、娘への思いがさらに切実に描かれる。
- 直美のもとに「小日向」名義の手紙が届き、夕凪の線がまた動きそうな気配を残す。
個人的に印象に残ったこと
今回まず印象に残ったのは、休みの日にりんと直美が交代でフユの家に通い、康介の世話をしているところだった。直美が授業で患者の着替えを習ったと話すと、康介が「やはりフユなんかとは違うなぁ」とつぶやく。この「なんか」がかなり重かった。自分自身を卑下しているだけではなく、妻であるフユの仕事まで一緒に低く見てしまっているからだ。
りんが折り鶴を飾っていいかと尋ねたり、康介が英語の本を読んでいることに気づいたりする流れも良かった。康介は昔の仕事の関係で英語も少し、と話すが、「私の仕事の話なんか興味ないか」とまた自分を小さくしてしまう。ここでりん自身も、「そんなことなんかありま……」と言いかけて、自分も同じ言葉を使っていたことに気づいて飲み込むのが良かった。たぶんこの回は、この「なんか」をどう扱うかをずっと描いていたのだと思う。
雨の日に、りんと直美が手土産にアメを持っていく場面も印象的だった。昔は体を使う仕事をしていたから甘いものが欲しくなったこともある。でも今は、ただの穀潰しだから甘い物なんかとても、看病婦なんかやらせて……と康介が言った瞬間、二人が同時に「なんかなんかじゃない」「なんかなんかじゃありません」と言い返す。ここはかなり良かった。二人とも、看病婦という仕事を下に見る言い方に我慢ができなかったのだろうし、それだけフユの技術と働きぶりをちゃんと見てきたのだと思う。
しかもそこで終わらず、直美が「私には一生、フユさんのようにはできない」とはっきり言うのが良かった。これはかなり強い言葉だったと思う。見習である自分たちが新しい看護を学んでいるからといって、現場で十年積んできたフユの技術には到底届かない。その現実を素直に認めているからだ。りんも、フユは決して恥ずかしい仕事をしているわけではない、自分のことも「私なんか」と言わないでほしいと康介に伝える。ここは本当に良かった。
そしてその直後に康介が腹が痛いと言い出し、御不浄に行きたがる場面。ここでりんと直美が肩を貸して連れていく。そして帰り道に、「康介さん、今まで昼間ひとりの時に御不浄へ行ったことがあったのかな」と気づく。これがかなり良かった。単に家事を手伝った、慰めた、という話ではなく、今まで養成所で学んできた「観察」が、ちゃんとこういうところに生きているからだ。水を飲んでいないこと、御不浄を避けていること、その奥にある不自由さ。そこを見つけられるのはやはり看護の視点なのだと思った。
シマケン(佐野晶哉)、安(早坂美海)、槇村太一(林裕太)、槇村宗一(上杉柊平)の顔合わせの場面は、かなりコミカルだった。太一が自分に気があると勘違いして話がおかしな方向へ進み、安が「よくはないです」とはっきり答えるのは面白かった。ただ、シマケンの伝え方がややこしく、しかもそのあと、りんのことを延々と説明してしまう流れには笑いつつも、太一や宗一や安が「この人はりんが好きなんだ」と確信するのも無理はないと思った。太一が、シマケンには小説家になるには致命的な欠落がある、男女の情が分かっていない、と言うのも少し痛かった。
病室では、りんが折り鶴を配り、直美が丸山に「看護婦が優しくするのは仕事だから勘違いするな」と釘を刺すのもよかった。ここは少し笑えるが、同時に直美らしい距離の取り方だと思った。感情を見せすぎず、でも見捨てもしない。
小野田の描写もかなり印象に残った。ゆき(中井友望)が折り鶴を渡し、小野田は喜んで感謝を伝えるが、言葉を発するのも苦しそうに見える。それでも「人は意外に自分の気持ちが分からないものだから、気づいた時には口にするようにしているの」と頑張って話すのが重かった。病状は確実に悪くなっているのだろうに、それでも娘への思いは弱くならないし、ゆきやトメに向ける優しさも残っている。ここはかなり切なかった。
さらに、多江(生田絵花)と喜代(菊池 亜希子)がツヤ(東野絢香)にアメを渡す場面もよかった。今まで反発していたツヤが、一人になってアメを頬張って笑顔になる。ここはほんの小さな場面だが、看護婦見習と看病婦の壁が少しだけ崩れ始めたようにも見えた。
そして、病院の外で歩けなくなっている小野田を見つけたりんと直美。折り鶴を見ていたら外を見たくなった、娘もこの空を見ているかもしれないと言って空を見上げる小野田に、二人も一緒に空を見上げるのが良かった。ここもまた、特別な処置ではない。ただ同じ景色を一緒に見ているだけなのに、その時間がすごく大切に見えた。
最後に、寮で「小日向」と差出人の書かれた手紙を読む直美で終わるのも不穏で良かった。小日向の名前を借りた寛太からなのだろうし、おそらく夕凪のことが何か分かったのだろう。直美の出自の線がまた動きそうで、かなり気になる締め方だった。
「フユさんは“看病婦なんか”と言われるような仕事はしていません」
りんと直美は、フユは医者の手術介助が病院一うまいことを、夫・康介に伝えます。
👇思わず声がそろってしまったりんと直美https://t.co/zk1kxyUsHp
見逃し配信はNHK ONEで見上愛 じろう#朝ドラ #風薫る pic.twitter.com/W9tOnqezjz
— 朝ドラ「風、薫る」公式 (@asadora_nhk) May 27, 2026
康介の「なんか」は、自分を守るための言葉にも見えた
康介はずっと、自分のこともフユのことも「なんか」と言っていた。あれは卑屈で見ていてつらいけれど、同時に、そうでも言わなければやっていられなかったのかもしれないとも思う。足を悪くして働けず、妻に負担をかけている自分を真正面から見たらつらすぎる。だから「私なんか」「看病婦なんか」と言って、自分で自分を小さくしておくしかなかったのかもしれない。
だからこそ、りんと直美がそこを否定したのはかなり意味があったと思う。
看病婦と看護婦見習の壁は、少しずつだが確実に揺らいでいる
今回のツヤの笑顔や、フユが礼は言わないと言いつつも完全には突き放していないところを見ると、壁は少しずつ動いているのだと思う。もちろんまだ仲良くなったわけではないし、対立も消えていない。でも、相手の事情を知り、自分たちの正しさだけでは語れないと分かってきたことで、見習たちの側にも変化が出ている。それが良かった。
看護と奉仕と生活支援の境界は、やはり曖昧だ
今回もまた、康介の家でやっていたことをバーンズ先生が見たら「それは看護ではありません」と言いそうだと思った。でも、現実にはそういうことが人を楽にし、生きやすくする。洗髪したり、布団を干したり、御不浄の不自由に気づいたり。これは医療でも看護でも家事でもあるようで、その全部の間にある。だからこの作品がそこを丁寧に描いているのはかなり面白いと思う。
まとめ
2026年5月28日放送の『風、薫る』第44回は、看病婦たちの側にある生活や誇りに、りんと直美が少しずつ触れ始めた回だった。康介の「なんか」という言葉の中には、自分を守るための卑下や諦めが詰まっていたのだと思う。そこに対して「なんかなんかじゃない」と返した二人の言葉は、かなり重みがあった。
また、小野田の娘への思いや、ツヤの小さな笑顔など、病院の中の関係にも少しずつ変化が出てきているのが良かった。世の中は簡単ではないし、正しさだけでは人は動かない。それでも少しずつ関係がほどけていく感じがあり、かなり次が気になる回だったと思う。
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